思い込み

思い込みの強い人は自分で自分を苦しめてしまうことがあります。

誰もが普通に生きているだけで虚偽を擦り込まれ、意図的に生み出された価値観を植え付けられています。

そして思い込みの強い人ほどそこから抜け出せなくなります。

「それしかないのだ」と思い込んで聞く耳を持たず、他の異なる見方が受け入れられないのです。

意のままに思考を操作されてしまう、ということでもあります。

ゆえに思い込みとは本当に恐ろしいものです。

思い込みは誰にでもあるものであり、「自分には思い込みなどない」ということ自体がすでに思い込みです。例えば・・・

冬用防寒ハウス1号(ヒーターマット無し仕様)を用意すると、さっそく中に入っています。

「覗くニャ(怒)」と言わんばかりにこっちを睨むポンちゃん?

それは思い込み、元々こんな顔です(笑)

思い込みとは誤解の元でもあります😅

何事も思い込みが過ぎないよう気を付けたいものですね。

何事も順番が(私見)

これまで世を支配してきたものが急速に力を失い、世の中が良き方向へと変わりつつあります。ですがすべてが同時進行で変わりゆくのではなく、何事も変わるには変わる順番があると思うのです。

変えてゆく人にはそれぞれの役割があり、その人でなければ出来ない役目を果たし、また別の役目の人へと入れ替わり、改善の流れが引き継がれてゆくのでしょう。

なので物事を狭い視野で見て、今改善に当たっている人の担当外の分野が放置されていることを嘆いたり、そのことで良き成果を出している事まで否定する必要はないのではと思います。物事は善か悪かの二極化思考では割り切れないことの方が多いものです。

料理にも手術にも手順があり、食材を調理する順番を間違えたり術野の組織を手当たり次第に切ったりしていては上手くいきません。

やはり何事も順番が大切です。

木々の紅葉も同時には進まず、桜が先に紅葉し始め、カエデは少し遅れます。

なぜそうなっているのかというと、そうなっているからとしか答えようがないものです。

二極化思考

イエスかノーか、賛成か反対か、好きか嫌いか、善か悪か、白か黒かという二極化思考は西洋思想で、私達も知らず知らずのうちにそのような思考が正しく、従うべきものであると植え付けられています。

ですが物事はどちか一方に割り切れないことの方が圧倒的に多い、が真実ではないでしょうか。

イエスでもノーでもないこと、好きでも嫌いでもないこと、善とも悪とも言い切れないこと、などなど。

自然の色彩に目を向けると、そこには無段階の色のグラデーションが存在しています。

無数の中間が存在している・・・

この色彩の顕れこそが、現次元のあらゆる事象の本来の姿ではないか?

身の回りの自然の姿を見て、ふとそのようなことを思いました。

黒猫ポンちゃんにも微妙なグラデーションが😄

違和感

利己的な目的のために、あらゆる手段を使って意図的に虚偽がばら撒かれています。

真実と虚偽を見極めるためには知識や情報の総動員が必要ですが、それだけでは虚偽を見抜けないことがあります。

ですが虚偽はいくら巧妙に偽装されていても必ず違和感があるものです。

騙されないためには何事も直ぐに判断しないこと、よくよく違和感を感じ取ることです。

自然界の造形には完全なる調和が宿っています。

仕組まれた虚偽には「不自然さ」が宿り、「違和感」として察知されるのでしょう。

自然を愛しむことで自然界の調和に共鳴し、違和感を感じ取るセンサーが磨かれるのではないかと思います。

棲み分け

人間関係に変化が起きている

氣の合わない人とは自然と疎遠になり

氣の合う人との新たな出会いがある

すぐ近くに住んでいても全く見掛けなくなり

遠く離れた人と新たな接点が出来つつある

それぞれ自分に見合ったところへ棲み分けが進んでいる

目に見えない力

庭に出てふと見ると、庭木の茂みにスズメバチが入ってゆく

茂みを覗くと女王蜂が営巣を始めている

庭の一番奥に行き、ふと隅に目をやる

古い送水管から水が僅かに漏れ出している

毎日庭を隅々まで見て回っているわけではない

なぜかそのタイミングでそこに足を運び目を向けている

何故ふとその時そうしようと思ったのか・・・

自分の意思とは異なる何かにそのように仕向けられたと感じる

やはり人は良くも悪くも目に見えない力に導かれている

「たまたま」と言われるものは、すべてこの力の働きかもしれない

良くも悪くも自分に見合ったものと繋がる仕組み

縁との関わり方

縁というのは奇跡的とも言えるほど低い確率の上に成り立っているものであり、また縁がなければ決して巡り合うことのないものですが、普段はひとつひとつの縁をそのように意識することはありません。

その縁にもいつか必ず終わりが来ます。

悪しき縁は一日も早く終わって欲しいですが、良き縁の終わりは辛いものですね。

そして大切な縁ほど、後になって「共に過ごした日々の何気ないひとつひとつが掛け替えのないものだった」と気付くものです。

同じ状況の設定はもう二度と経験出来ないものだからでしょう。

人々との縁、動植物との縁、微生物との縁、地域との縁、国との縁、地球との縁・・・

後になって「もっと・・・しておけば良かった」と悔いることのないよう、いつか必ず終わりが来る縁を大切にしたいものです。

エノコログサとの縁

むかご(自然薯)との縁

寝てばっかりの🐈との縁😅

生まれ育った地域との縁🌅(小さすぎて見えませんが、この画像の中に自宅兼医院が写っています)

太陽系との縁🌞

宿命と運命

宿命と運命は混同して使われることがありますが、宿命は生まれる前からあらかじめ決まっている寿命や役目であり、運命は自分の意思で選ぶことが出来るものです。

登山に例えると宿命とは登る山の標高や地理的な位置であり、運命とは山頂に至る幾つもの道のひとつで、どの道を辿るかで途中の景色が違ってきます。

選んだ道にもまた途中に幾つもの分岐があるように、毎瞬毎瞬選択の機会が与えられており、何を選ぶかでのどような景色を目にしながら人生を歩むか=運命が決まります。

登りながら、どうもこれは違うな?と思えば、途中で道を変えてよいということでもあります。

周りからの影響で選ばされるのではなく、自分で考え自分らしく生きる選択をして、喜び多い人生、悔いのない人生を歩みたいものですね。

大雨の時の避難場所

早朝

眠たそう

 

自然体

すべては時の流れと共に変わりゆくものです。

変わらないものは何一つなく、変わらないように見えるものは単に変化が遅いだけです。

星や銀河でさえ、気の遠くなるような時間の中で変化しています。

変わりゆくことが自然の摂理であると悟れれば、過去への執着や囚われも手放しやすくなるかもしれません。

何事も自然の流れに任せると楽に進み、流れに逆らうと苦しくなるというのは、そのことでもあるのでしょう。

自然体でいるというのは、自分らしくありながら流れに沿って生きること、自分らしく変化し続けることなのでしょう。

国土地理院の年代別の写真を見るのが好きで、時々生まれ育った地域やよく訪れた場所の昔の空中写真を見て、懐かしい思い出に浸っています。

常に自然体😄