己の感情を見極める

私達は一時の感情の昂り、とりわけ怒りや憎しみなどのネガティブな感情に心を支配されがちです。一旦心を支配されてしまうと理性で自己を制御することが困難となり、それがきっかけで人間関係を拗らせてしまったり、時には社会的な問題を引き起こしてしまうことも少なくありません。私自身もそれが元でこれまで数々の失敗を繰り返してきました。

「魔が差す」とは一時のネガティブな感情の昂りが自分の意識とは無関係に増幅されてしまうことであり、普段から抱えているネガティブな感情を手掛かりに魔につけ込まれ、一時的に思考感情が乗っ取られてしまうことです。最近頻発している凶悪事件も、犯罪者の心の中にくすぶっているネガティブな火種が掻き立てられ、暴走に至ったものではないかと思います。

人は誰でも自分の理性ではどうにも出来ない心理状態に陥る可能性があることを心に留め、自分の心の中にあるネガティブな感情をよくよく見極め、決してそれに執着しないこと、そして常にポジティブな感覚を保つように努める必要があります。ネガティブな感情に従う時間をポジティブな感情に費やすように切り替えること、これを何度も何度も自分に言い聞かせながら繰り返すことです。またネガティブな言葉を口にすると、ネガティブな感情を一層増幅させることになりますので、言葉にはくれぐれも気を付けなければなりません。

ネガティブな感情を抱きそれに浸る癖は誰にでもあるものですので、自分は大丈夫と思っている人はその慢心や過信につけ込まれ、足元をすくわれます。取り返しのつかない事態に陥ることのないよう、常に自己の感情を見極めポジティブな感覚を保ち続けましょう。

思い込み(=洗脳)からの解放

私達は「地球は人間の所有物であり、幸福とは経済的豊かさである」という思い込みの中に生きています。思い込みというのは、自分で生み出したものではなく、そう信じ込まされたもの(=洗脳)です。誰もが信じて疑うことすらしなくなってしまうほど長い長い洗脳の歴史があり、今日に至っています。 資源という言葉を誰もが当たり前のように使っていますが、地球は人間の所有物であるという意識の顕れです。

誰一人として自分の力で生きている人はいません。酸素も食べ物も飲み物も着る物も住む家もすべて、地球・自然・生態系から頂いているものです。それらなしで生きて行けないのは分かりきったことですが、それでも私達は経済優先を手放せないでいます。それは経済的豊かさこそが幸福であると洗脳されてしまっているからです。

間違った思い込みにより地球上の何もかもが穢され、もう取り返しのつかないところまで来ています。命の要である大切な土・水・気が汚され続けています。山も海も川も生き物が次々と姿を消しています。私達人間も便利さや快適さと引き替えに、気がつけば健康を維持するのが困難なほど異常な衣食住環境下で暮らしています。それでも異常とは思わないようにさせられてしまっています。

地球を蝕む経済至上主義の洗脳から目を醒まし、私達を生かしてくださっている地球・自然・生態系を「破壊しない」「汚染しない」「略奪しない」生き方を、ひとりひとりが実践して行く時が来ています。

草木は時期が来たら自然に咲くのではなく、咲きたいという想いがあって、花を付けているのでしょう。

春の陽差し

2月下旬ともなると陽差しもすっかり春めいてきました。ジャノヒゲの実。この草の根の膨大部を乾燥させたものが生薬の麦門冬(バクモンドウ)です。粘膜や皮膚を潤す作用があり、のどが渇き空咳が続くような状態に効果があります。風邪などの後にのどがイガイガして空咳の発作が続く状態には、 半夏厚朴湯とこの生薬を含む麦門冬湯の併用が有効です(「夏と冬」と覚えています)。

チョロちゃん、時々信じられないくらいの猛スピードで庭を走り回っています(なぜなのか分かりませんが・・・)。走り回って気が済んだ後は、 よくお気に入りの場所のひとつであるジャノヒゲの傍に身を潜めています。獣には獣にしか分からない喜びがあるのでしょう。

陽の光、空気、霞、草木、獣・・・それぞれに役割があり、そのお陰で私達は生きて行くことが出来ます。誰一人として自分の力で生きている人間はいません。ですから、地球の自然や生き物を単なる資源(所有物)とみなし、人間だけの幸せを求める人間中心主義は間違っています。日々私達を生かして下さっている自然、森羅万象の恩恵に感謝の念を手向ける生き方が、地球の生態系の一員としての人間の本来あるべき姿ではないかと私は思います。

思い込みを手放す

人は皆、自分の思い込みの中に生きています。そしてこの思い込みというのは、自分で生み出したもののようで実はそうではなく、他から植え付けられた固定観念です。生きていて幸せを感じられないのは、「こうならなければ幸せになれないのですよ」という恐怖を植え付けられ続けてきたからであり、全部、自分の思い込みに苦しめられていると言えます。

人は皆同じでなければならないというのも、知らず知らずのうちに植え付けられた思い込みです。地球上には75億の人がおり、75億通りの考え方があります。この世にははじめから自分と違う人しか存在せず、私は私、あの人はあの人、この人はこの人であり、私は私でよい、出来ないものは出来ないでよい、ということだと思います。

食事の後、よく膝の上に乗せろと訴えてくるポンちゃん。執拗な訴えに負けたときの様子です。 ポンちゃん凄く大きいのでお尻が痛くなりますが、容赦なく居座り続け、満足げに喉をゴロゴロ鳴らしています。自分の思うように自分らしく生きる生き方の見本でしょうか(笑)

こころとことば

昨年の12月に校医をしている小学校で学校保健委員会が開かれ、「心の健康~言葉について」というテーマで子供達が発表しました。子供達は「ふわふわ言葉」と「チクチク言葉」を取り上げ、言葉が心に及ぼす影響についてアンケート結果を基に分かりやすく説明していました。私も校医の立場から話をする機会があり、心とは?言葉とは?という話をしました。

「心」とはからだのように見たり触ったり出来ないので、分かっているようでなかなかうまく説明の出来ないものですが、心の中にあるものに目を向けると、心=思考・感情の容れ物と言うことが出来るのではないでしょうか。そして「言葉」とは心の中に無数にある思考・感情の中からひとつを選んで声にし、外に顕わすことですが、この思考・感情を選ぶ元は「氣」であり、従ってはじめに心があり、心が氣を生み、氣が言葉を生み出すという流れになっています。

子供達が取り上げたふわふわ言葉とは「ありがとう」「よかったね」「大丈夫」「一緒にいよう」などの人を貴び人を思いやる言葉、チクチク言葉は「死ね」「きもい」「じゃま」「ボケ」などの(なかには「死神」とかもありましたが(笑))思いやりの気持ちを欠いた人を貶む言葉ですが、チクチク言葉は相手の心を傷付けるだけでなく、同時に自分の心の中の「人を思いやる気持ち」も傷付けますので、チクチク言葉を口にすればするほど、思いやりの気持ちが薄れていき、知らないうちに人を傷付けることが平気になり、終いにはそれが喜びにさえなってなってしまうものです。チクチク言葉を言われて嬉しい人などいませんので、人が次第に離れていき孤独になっていきます。

反対にふわふわ言葉は、口にすればするほど心の中の思いやりの気持ちを育み、またチクチク言葉を次第に口にしなくなっていくので、人間関係も良くなり笑顔に囲まれるようになります。

保健委員会の最後に教頭先生が言葉をブーメランに例えて子供達に話をされました。人の悪口を言うとブーメランのように自分に返ってきて、いつか必ず人から悪口を言われるというお話でした。言葉は同じ波長のものを引き寄せますので、人を傷付ける言葉を口にしていると、自ずと不運が訪れるという意味でもあるのでしょう。

このように普段口にする言葉が日々目に写る身の回りの景色を生み出ており、言葉はよくよく気を付けて選ばなければならないものであることが分かります。そして普段どのような言葉を選んでいるかは、染み付いた心の癖(氣の善し悪し)によるものです。子供達の発表の中で、「ふわふわ言葉よりチクチク言葉の方が思い付きやすい」という話がありました。これは子供達が普段チクチク言葉をよく口にしている証拠であり、それはテレビ、ゲーム、SNS、周囲の大人達の口から絶えずチクチク言葉を見聞きしている、すなわち悪しき氣を浴び続けているからに他なりません。子供は周りの大人を見て育つもの。私達の責任は重大です。普段何気なく口にしている言葉の癖を、もう一度見直してみる必要があるのではないでしょうか。

 

思いの舵取り

年配の方である時期から急激に物忘れがひどくなり、ことある毎に家族から非難され、生きているのが辛いと相談されたことが何度かあります。ついさっきのことを忘れてしまい、繰り返し同じ事を言ったりしたりするので、家族も最初は辛抱強く対応していても、そこは人間ですので限度があり、余りに何度も繰り返されると、身内だけについ厳しい口調で非難の言葉を浴びせてしまうのでしょう。

言われた方は「相手の言葉が胸に突き刺さり、ひどく傷付く」と口を揃えて言われます。忘れてしまう自分が悪いので言われても仕方がないけれど、改めようとしても自分ではどうにも出来ない事だけに、余計に辛いとのことです。

年齢的な物忘れが目立つ方への接し方として、相手に腹が立ち非難したいという怒りの感情が湧いた時に、瞬間的に沸き上がった思いをそのまますぐ言葉にせず、一呼吸置き、「ちょっと待てよ。この感情のまま言葉にしてよいのか?」と自分に問う習慣を身につけることが、己の感情を暴走させずにコントロールする秘訣かと思います。この場合の怒りは己の思い通りにいかない事への反応なので、己を押しつけるのでなく相手を理解しようとする思いが大切です。言うは易く行うはなかなかですが、失敗を繰り返しながらも根気よくこの習慣を身につけて行きたいものです。

うまく出来なかったときは怒りを向けて深く傷つけてしまった相手に「言葉が過ぎました。ごめんなさいm(__)m」と言葉と態度できちんとお詫びしましょう。腹が立っても以前のようにキレずに対応出来たときは、「おー、今回は出来た!」と自分で自分を褒めましょう。そうすれば一層感情をコントロールしやすくなり、さらなる喜びへと繋がって行くことでしょう。私達は何かにつけて自分を卑下することに慣れ過ぎてしまっていますので、出来たときには自分を褒めて喜びを素直に表現し、喜びを感じにくくなるこの悪しき負の思考(卑下)の癖を改めていくことも併せて必要かと思います。

 

うれしたのし生きる2

雑草を放置した庭は草ぼうぼう、今やお手上げ状態・・・

自然の氣と酸素は一杯ですが(^_^;)

草むらでくつろぐチョロちゃん

ポンタ 鳥を狙っているようです 身を潜めているつもりか?

カメラに気付いた?

目線が’・・・(笑)

草木、虫、獣、人、みなみな地球からからだを借りて生き、それぞれの意識は氣で繋がっています。ゆえにみなみなうれしたのし生きられるようになるには、他を愛しむ心を広げることではないでしょうか。

 

父の死に接して

昨年の夏、当院の初代院長である父が亡くなりました。最期は自宅で私が看取りました。癌の末期で亡くなる1ヶ月前には寝たきりとなり、その頃より喉の奥に痰がへばりついて苦しいと言い出しました。鼻からカテーテルで吸引しても痰の塊などないのですが、一旦喉奥の痰が気になり出すと、何度も何度も繰り返し痰の吸引を求めてきりがなく、私も疲れ果てて父の求めに応じ切れずに「単なる気のせい」と片付けてしまったこともありました。

連日そんな状態が続き疲労困憊していたとき、ふと思い立って、父にあるお薬を試しに飲んでもらいました。するとしばらくして「さっきの薬、効いたみたいや。喉の奥がすーっと楽になったわー」と言ったのです。そのお薬は抗不安薬の一種でした。

71歳の時に最初の癌が見つかった父は、以後3~5年毎に新たな癌になり、亡くなるまでの18年間は闘病生活の連続でしたが、その都度病気を乗り越え、常に前向きに生きていました。ところがある時期からよほど喉が気になるのか、しょっちゅう洗面所へ行っては咳払いとうがいを繰り返すようになりました。家族に心配掛けまいと明るく気丈に振る舞い続けた父でしたが、今から思えばこの「喉の違和感」は「再発への不安」の顕れであり、亡くなる前の「喉奥の痰の苦しさ」は「死への不安」の顕れだったのでした。

父の痰の訴えは、現代医学の知識に縛られた私の固い頭では理解し難いものでした。なので私は死期がいよいよ迫るまで、父の苦しみを理解してあげられませんでした。父の最期に医師として家族として立ち会いながら、表面的にしか寄り添えなかったことが申し訳なく、深い反省の気持ちがあります。他を理解出来るようになるには、まず他を理解しようすることであり、それには、相手の言うことに素直に耳を傾けること、自分の狭い知識だけで物事を判断しないこと、思い込みの癖を外すことであると、この経験を通じて学びました。

亡くなる二日前、身の置き所の無いしんどさに苦しむ父に良くなる見込みがあるのかどうか尋ねられた私は、「もう寿命やと思う」と正直に答えると、「そうか・・・そしたら苦しないようにだけしてくれるか」と言い、傍に寄り添う母に「幸せな人生やった、ありがとう」と何度も繰り返しました。その翌日の午後、緩和医療の最終手段であるドルミカム(鎮静剤)持続点滴により眠りに落ちると、最後息を引き取るまで父が覚醒することはありませんでした。肉体から離れ、ようやく長く辛い病の苦しみから解放された父の表情はとても穏やかでした。

 

うれしたのし生きる(チョロ)

うちの庭で生まれてもうすぐ4歳。

説明不要。うれしたのし生きています(^_^)

うれしたのし生きられることは、とてもありがたいことです。

ご飯も仲良く食べています。

外飼いなので、この時期耳や鼻を蚊にやられるのは、ある程度仕方がありません。蚊も必要あって存在しているのでしょうし。

 

思いの選び方

苦手なものというのは人それぞれですね。知人にインコが好きで数匹飼っている人がいますが、その人は鳥好きにも関わらず鳩が苦手とか。首筋のあの緑と紫の色が気持ち悪くてダメだそうです。女性は概して虫が苦手なようで、蝶やテントウムシのようにそれほど不気味とは思えない形の虫でも、生理的にダメという人を何人も知っています。虫好きの私も、昔からアシダカグモが大の苦手で、突然目に前に現われ家の壁を素早く動きまわるあの姿だけは無理でした。もう少しましな形になれなかったのかと思います。

その苦手なアシダカグモですが、今から10年ほど前、一泊二日の行程で山歩きをしていたとき、夜の寝床にと入った山の避難小屋に数匹いて、彼らと一夜を共にせざるを得ませんでした。しかもそのうちの一匹がいつのまにか私のリュックの中に潜り込んだらしく、知らずに家に持ち帰っていました。朝目が覚めると、自分の部屋のリュックの傍にいたのです。

ところがその時、何故か不思議と恐怖よりも山奥の住処から突然知らない所に連れて来られたクモが不憫に思えて、自力でビニール袋に入れ庭に逃がすことまで出来たのでした。それ以来、幼い頃から続くアシダカグモへの異常な恐怖はなくなり、今では見掛けても以前ほど動揺することはなくなりました。

生理的嫌悪感はどうにもならないものも多いですが、恐怖はさらなる恐怖を生み、そこから抜け出せなくなってしまうことがある一方、気持ちの向け方ひとつで克服出来ることもあるのだと、このおぞましい経験を通じて学びました。ふと思う」とか「魔が差す」と言われるように、「思い」というのはすべて自分で生み出しているようで実はそうではなく、どこからか流れ来るものを自分で選んでいる(あるいは選ばされている)ものなのでしょう。

何事も経験と言いますが、このように二度としたくない経験もあります(^_^;)

載せる写真もありません(^_^;)